2012年1月16日月曜日

「危機」の時代の天皇制を問う! 2・11反「紀元節」行動   集会とデモ



「危機」の時代の天皇制を問う!2・11反「紀元節」行動へ! 
「女 性宮家」創設に向けた政府の検討が本格化した。かつて、女性・女系天皇を認める方向で検討された「皇室典範」改正案は、秋篠宮家に悠仁が生まれ たことによって棚上げになった。しかし、このままでは天皇を支える皇族がいなくなるという危機感が、こうした方向性に踏み切らせたのである。

天 皇主義者にとっては、この焦りには、別の意思も含まれている。次の天皇制を担うべき皇太子夫妻が、きわめて「頼りない」ことがそれである。病気の 妻は「皇后としての役目」を果たせるのか、皇太子は次の時代の天皇像を明確に示せていない、昨年、明仁天皇が入院した。時間はないのだ。

昨 年の3・11以後の時間は、あらためて、日本の戦後社会の暗部を引きずり出した。原発・安保・基地・新自由主義・生存・ナショナリズム・排外主 義・・・・・・多くの解決されるべき問題が、危機的な状況としてわれわれの目の前に広がっている。だが、それを隠蔽し、この日本の戦後社会のありかたを文 字通り象徴し、肯定し続けてきたのが天皇制である。絶対敬語にまみれた天皇への賛美は、そのような「日本」を賛美することと同義である。

今年の「紀元節」を、われわれは、こうした状況自体をとらえかえし、それに対する反撃の陣形を見出していくための抵抗の日としていきたい。さまざまな社会運動に取り組む方の問題提起を受け、集会後のデモにも取り組んでいきたい。

われわれは、さまざまな意味で危機の時代に生きているが、天皇制の「危機」は、もちろんわれわれにとっては危機でもなんでもない。それは世襲の人間が国家 の「象徴職」を独占していることの矛盾の現れだ。それ自体が身分差別であり、家柄や社会的な差別、民族差別を再生産していく装置である天皇制はいらない。 天皇神話にもとづく建国記念日=「紀元節」反対行動へ!

日時: 2012年2月11日(土・休)
     午後1時開場  集会後デモ 

場所: 日本キリスト教会館4F(地下鉄東西線早稲田駅3b番・2番出口から穴八幡神社方徒歩5分)

発言: 京極紀子(「日の丸・君が代」の法制化と強制に反対する神奈川の会)
     桜井大子(女性と天皇制研究会)
     なすび(福島原発事故緊急会議・被曝労働問題プロジェクト)
     村上陽子(ゆんたく高江)
 
主催: 「危機」の時代の天皇制を問う!
     2・11反「紀元節」行動実行委員会
呼びかけ団体: アジア連帯講座/ アンポをつぶせ!ちょうちんデモの会/ 国連・憲法問題研究会/ 立川自衛隊監視テント村/ 反天皇制運動連絡会/ 「日の丸・君が代」強制反対の意思表示の会/ 靖国・天皇制問題情報センター/ 連帯社/ 労働運動活動者評議会

2012年1月15日日曜日

2・11反「紀元節」行動 呼びかけ文

 11月6日、天皇明仁は「風邪による発熱と気管支炎」のため東大病院に入院した。やがて軽い肺炎にかかっていることもわかり、一時は高熱も続いた。多くの人びとが天皇「Xデー」の記憶を甦らせたに違いない。

 国賓として来日したブータン国王歓迎晩餐会や勲章受章者の拝謁、「新嘗祭」の儀式などを天皇は欠席することになったが、それらは天皇という制度にとってはきわめて重要な意味をもっているものばかりである。その後退院し、「公務」に復帰したが、当然のごとく、高齢の天皇の「負担軽減」を、という声が、マスメディアなどで伝えられている。

 いま、天皇制はきわめて「危機的」な状態にあると言わなければならない。右派メディアを中心として、病いを長引かせ、皇太子妃としての「公務」を果せていない(にもかかわらず、娘・愛子についてだけは熱心に動いている)雅子へのバッシングが激しく続いている。そして、それをコントロールすることができないばかりか、かえって「マイホーム主義」に埋没している皇太子にも、重ねて非難の矛先が向いている。皇太子と雅子との離婚、あるいは皇太子を「廃太子」として、秋篠宮に皇位継承順の第一位を譲れという議論も根強くある。こうしたなかで、秋篠宮は天皇の「定年制」を口にし、宮内庁長官は、「女性宮家創設」の検討について述べた。

 こうした議論がくだらないのは、それが、天皇制を存続させていくために何が必要かという観点からなされたものでしかないことによる。

 明仁・美智子は、3.11以後、震災の被災地をめぐり、被災者を慰問するパフォーマンスを精力的に行った。今回の天皇の病気も、「私」を棄て、「国民のために」駆けずり回った「疲れ」によるなどという物語がつくられている。彼らが折りに触れて、こうした「祈り」や「癒し」、「慰霊」などという行為を熱心に行って見せるのは、それが、彼らによって「完成」された戦後象徴天皇制の「核心」であることを、強く自覚しているからにほかならない。右派メディアなどによる皇太子・雅子へのバッシングは、天皇夫妻のそうした振る舞いを、次なる天皇夫妻が演じることができないだろうことへの焦燥によるのだ。それは、彼らにとっての、見過ごすことのできない「危機」なのである。

 繰り返すが、天皇制のありかたをどう見直すかという議論はくだらない。それは、天皇家という、世襲の家族が国家の機関を人格的に担っていることが生み出す矛盾であって、そのような制度それ自体がいらないという言葉を対置すればよい。だが、それだけですまないのは、一連の天皇論議が、皇室典範をはじめとする制度の改変に直結し、天皇制というものがどのような意義を持つのかということを、「国民」に対してあらためて示す「教育的な機能」を果すことになるからである。

 明文改憲への動きとも連動しつつ、天皇制をめぐる論議は当分続いていくことになるだろう。こうした状況の中で迎える「建国記念日」は、とりわけ伝統主義的右派の内部で、右派的な立場から天皇制を再組織していこうとする議論の場とならざるを得ないだろう。すでに安倍晋三は、早々と「女性宮家」が男系主義をくずすものとして「懸念」を表明した。われわれは、このような天皇論議が、いずれにしても天皇制の再評価=再構築につながるものであることを批判し天皇制をめぐる議論の枠自体を転換させていかなければならないと考える。いまこそ、あらためて、天皇制はいらないという声を明確にしながら、我々の側からの天皇制批判の内実をつくり出していかなければならない。そのための共同の取り組みに、ぜひ参加・協力を。